
はじめまして。
アダルトチルドレン専門、傾聴心理カウンセラーの久高万由子です。
私は機能不全家族、
特に母親との関係で苦しんできたアダルトチルドレンです。
長い間、さまざまな苦しみの中で、
もがき続けてきました。
そんな私が心理を学び、
カウンセリングを受け続ける中で気づいたのは、
生きることそのものに「悲しみ」が根付いていたことでした。
その「悲しみ」を少しずつ手放し、
「等身大の自分」を認めていくことで、
私の目の前に広がる現実も、徐々に良い方向へ動き始めました。
かつては、周りのすべてが敵に見えていた私の人生が、
今では、信頼できる仲間と有意義な時間を過ごせる人生へと変わり
「生きること」が楽しいと思えるようになりました。
「自分の内側と外側の隔たりを埋めていく (自己一致) ことで
生きづらさはぐんと減り、幸せが増えていく」
そのことを、
アダルトチルドレンでしんどい思いをされている方々に、
私自身の経験や克服の過程を交えながら、
お伝えしていきたいと思っています。
そして、
「いつからでも、どこからでも、人生は変えられる」ことを
共に実感していきましょう。
このようなことでお困りではありませんか?
・いつも同じパターンの人間関係で悩んでいる。
・人との距離感が分からない。
・見捨てられそうな不安感を常に持っている。
・なぜかやる気が出ない。
・親に復讐心がある。
・自分に価値があると思えない。
・人の機嫌ばかり取って疲れる。
・孤独感がつきまとう。
・いつも誰かに見張られている感覚がある。
もし、ひとつでも当てはまるなら
あなたは今、とても苦しい状況にいるのではないでしょうか。
実は、私もかつて同じような悩みを抱えていました。
そして、その根本には
「自分がこの世に生まれたことへの悲しみ」があったのです。

この世に生を受けた私「悲しみの誕生」
私は帝王切開で生まれました。
予定日を3週間過ぎても生まれる気配はなく、
これ以上は母子ともに危険だという判断で、緊急手術となったのです。
今考えると、
もしかしたら私は、生まれたくなかったのかもしれません。
母は何の説明も受けぬまま、
口にタオルを噛まされ、手術台に縛られ、
麻酔なしでお腹を切られました。
(私を取り出した後、すぐに麻酔処置)
この時母は、もうろうとした意識の中で
三途の川を見たそうです。
そして意識を取り戻したとき、
看護師さんが「赤ちゃんを連れてきますね」と声をかけました。
しかしその瞬間、母が放った言葉は——
「私をひどい目に合わせた子には会わない」
それは、怒りに満ちた拒絶の言葉でした。
幼い頃から何度もこの話を聞かされるうちに、
いつしか私は、
「自分の存在が誰かの迷惑になる」と思い込むようになりました。

幼少期「母からの理不尽な扱い」
私が幼稚園くらいの頃、母はよく死んだふりをしていました。
最初は「そんなはずはない」と思いながら
「お母さん、お母さん」と何度揺すっても、ピクリとも動かない。
「もしかして、今度こそ本当に死んでしまったかもしれない」
と次第に恐怖がこみ上げ、泣きながら母を呼び続けます。
そうすると決まって、
死んだはずの母が、目を閉じたままこう問いかけてくるのです。
「これからはお母さんの言うことを聞きますか?」
「もう困らせませんか?」
パニックの中、私は泣き叫びながら、
「言うことを聞きます」
「いい子になります」
と、必死に訴えます。
そうすると、母は生き返るのです。
そんな恐ろしい遊びに、
私は何度もつきあわされていました。
また、小学校にあがる頃には。
私が「女の子」であることを、母がとても嫌がるようになりました。
長かった私の髪は短く切られ、
当時流行っていた、レースの洋服やひらひらの靴下は禁止。
そうして私が男の子に間違われるのを、母はとても喜んでいました。
(ちなみに高校を卒業するまで、洋服の買い物は必ず母と一緒。
母が許可したものしか買ってもらえませんでした)
ある時、母が予約してくれた近所の美容室で、
勇気を出して美容師さんに
「今日は少し長めにお願いします」と伝えた時のこと。
「あ~、だめなのよ。お母さんからの電話で、短く切るように言われてるから」
美容師さんは申し訳なさそうに言いました。
私はその言葉を聞きながら、
涙をこらえて、ただ静かに髪が切られていくのを、
受け入れるしかありませんでした。

しかしながら、どんなに男の子に寄せようとしても、
筋肉質な母と違って
私は本来持っている「女の子らしさ」を隠すことが出来ません。。
そんな私を嫌がり、伸ばした手を振り払う母。
「あっちに行きなさい」
「触らないで」
「気持ち悪い」
そんな言葉を日常的に浴びせられるうち、
私は次第に
「自分は気持ち悪い存在なのだ」と信じるようになっていきました。
母に自分の意思を伝えることも、
自分自身を肯定することも出来ない。
そんな息苦しさの中で、
私の体は、
原因不明の体調不良を繰り返すようになります。

青年期「母の過干渉が加速する中で」
中学生になった私は、原因不明の血尿で
体育を見学するようになりました。
同時に、ストレスでおならが止まらなくなる症状にも
苦しめられました。
それでも、母からの過干渉は止まりませんでした。
ある日、母の車に乗せられ、とあるところに連れていかれました。
降ろされたのは、家から遠く離れた少人数制の塾。
「ここ、どこ?」と尋ねる間もなく、
母は不機嫌そうに言いました。
「いいから行きなさい!」
何も聞かされないまま、私は静かな教室に放り込まれました。
先生の声以外、物音ひとつしない緊張感。狭い部屋。
すると、胃腸が過敏に反応し、
おならが今にも出そうになり、脂汗が滲みました。
それは授業が終わるまで続きました。
とてもじゃないけど、勉強どころではない。
でも
泣くことは出来ない。
逃げることも出来ない。
苦しい、苦しい、苦しい。
誰か助けて。
そんな私の心の叫びは、誰にも届くことはありませんでした。
では一体なぜ、母は
家から距離のあるこの塾を選んだのでしょう?
それは、仲の良い友達から私を離すためでした。
友達に毒されない場所で学ばせ、
「自分の娘を誰にも負けさせない」と決めた、
歪んだ母の思いの中に、
私の気持ちを推し量る余地などなかったのです。
母にとって私は
母自身が優越感を味わうため、周囲と闘うための「駒」でした。

結婚・出産「息子の保健室登校を通して自分を知る」
無事高校、短大を経て銀行に就職した私は、
7年間の勤務後、結婚と出産を経験しました。
生まれた子供は男の子。
なよなよしていて、とても敏感で優しい子です。
けれど、私は
そんな息子の「弱さ」を受け入れることができませんでした。
「強く育てなきゃ」
「社会に順応する子に育てなきゃ」
焦る気持ちが募ります。
幸い、勉強が好きな子だったので、
「そこを生かして頑張ってくれれば」との思いで
小さい頃から学習塾に通わせました。
塾では本領を発揮して先生を驚かせる息子に、
もっともっと、
もっともっと、
私の期待はどんどん膨らんでいきました。
そうして受験を乗り越えて入学した
中学1年の2学期、
息子は教室に行けなくなったのです。
ここまで読んでくださった方なら、もうお分かりでしょう。
そうです、
私は知らず知らずのうちに母と同じことを
息子にしていたのです。
息子の意思をすべて無視して
私の思いどおりに生きさせる、悪魔の支配。
スクールカウンセラーの先生にこう告げられました。
「息子さんは、感情がなくなっています」
私は、その言葉の意味をすぐには理解できませんでした。
「どうしたらいいのか、わからない…」
混乱する私に、先生は続けました。
「まずは、息子さんよりも、
あなたとお母さんの関係を見直していきましょう」
その言葉をきっかけに、私は心理学を学び始めました。

その後の私「毒親育ちでも大丈夫!」
私は息子の保健室登校を機に、色々なところで様々なセラピーを学び、
たくさんのカウンセリングを受けました。
その中で気づいたのは
「私はとても傷ついていた」 ということです。
もっというと、
「私の母も、私と同じように傷ついていた」 ということ。
「心の傷を癒せないまま親になる」
これが毒親の正体です。
人は心に傷があるまま、
いわゆる「怒り」や「悲しみ」を持ったままでは、
物事を真っすぐに見ることはできません。
どれだけ「真っすぐ見よう」としても、
心のフィルターを通してしまうと、すべてが歪んで見えてしまうのです。
そして、その傷を癒せるのは自分自身。
私の傷は私にしか、
あなたの傷はあなたにしか、
癒すことは出来ないのです。

今、息子は
辛かった当時のことを一冊の本にして出版し、
仕事の傍ら、様々な子供たちのサポートをしています。
私はシングルとなり、
現在は、私と同じように親で苦しんできた方々に並走しながら
「いつからでも、どこからでも、人生は変えられる」をモットーに
カウンセラー活動をしています。
毒親育ちだって大丈夫です。
「周りは敵だらけ」の戦闘モードから、
「みんな違ってみんないい」の幸せモードへ。
あなたも人生をシフトチェンジしていきましょう。